文・楊齡媛 写真・林格立 翻訳・松本 幸子
2020年、雲門舞集(クラウド・ゲイト舞踊団)の芸術監督に就任して6日目、鄭宗龍は団員を率いてヨーロッパ・ツアーに赴き、『十三声』を上演、「目を奪われるような公演、鄭宗龍の勝利」「感覚を揺さぶる文化的記憶」などと賞賛を浴びた。この一年、彼は新作『定光』を発表。ダンスで「定」を、音楽で「光」を展開する実験的な作品で、「精緻に作られた見るに値する作品」と称えられた。
その年、鄭宗龍はイギリスのラウトレッジ出版社(Routledge & CRC Press)による『当代振付師50人』に、著名なウィリアム・フォーサイスやアクラム・カーンなどとともに唯一の台湾人として名を連ねた。これは、世界で最も権威のあるダンス指南書で、2011年第2版には雲門創設者の林懐民の名もあった。この後継者は、50年積み上げてきた雲門の芸術を継承するだけでなく、さらなる別の高みへと率いる力のあることを、世界に証明したと言える。
鄭宗龍が幼い頃に暮らした艋舺(万華区)のイメージは、意図せずとも常に創作の源泉となり、また後の雲門でのさまざまな出来事も彼の人生にくっきりと痕跡を残している。
庶民の浮世絵
「龍山寺は子供の頃の遊び場で、池のニシキゴイが泳ぐのによく見入っていました」この画面は鄭宗龍のまぶたに刻まれ、『十三声』の舞台でも目の覚めるような赤く大きなニシキゴイとして出現し、ダンサーがモノクロから鮮やかな色に移るシンボルとなった。この作品にはほかにも、母から聞いた艋舺のかつての風景が登場する。昔、夜に路上で物語を聞かせる芸人がいたという。一人で複数の役を演じ、将軍になったり下女になったりと真に迫っており、その芸人は「十三声」と呼ばれた。それを鄭宗龍は作品名にし、子供の時に父と広州街の路上で履物を売っていた当時の艋舺を、さまざまな「声」で表現した。
「龍山寺では人生の百態が見られました。物乞いに施しをする金持ち、供え物を売る人、熱心にお教を唱える女性といった庶民の姿です」鄭宗龍が家族と露店を出していた場所にも同様の風景があった。ただ背景は夜で、片側ににぎやかな布袋劇(台湾伝統人形劇)が、もう片側には龍や獅子の舞いが繰り広げられ、その前に物乞いや物売りの姿があった。こうした庶民の風景は彼の創作の糧となり、作品世界に取り込まれている。
子供時代の生活が作品に
「母はよく私を連れてあちこちの廟にお参りに行きました。陰暦のこよみに赤字で記されている日にはほぼ参るのです」幼い頃から母に連れられ、龍山寺や青山宮、祖師爺廟に参った。ある時廟で、タンキー(シャーマン)が急に表情も声も豹変させ、まるで別人になってしまったのを見た。あまりに不思議で、忘れ難い印象を残した。この記憶も2015年創作の『来』に生かされた。ダンサーが次の動作に移る瞬間に、エネルギーの導きのようなものを感じ取って動くようにした。あたかもタンキーに神が乗り移る瞬間のように、ダンサーは「来た」と感じて動くのだ。また幼い頃に青山宮や祖師爺廟で見た祭りの伝統舞踊も、『毛月亮』や『十三声』の振付に取り入れた。
艋舺の剥皮寮一帯で鄭宗龍が思い出すのは、空気中に満ちていた薪で炊かれたご飯の匂いや隣人たちの笑い声、それに母が間借りしていた2階の部屋、十字路で麺を売る屋台を出していた祖父の姿などだ。現在の剝皮寮は歴史地区となり、建物を修築して昔の様子を再現させたり、文化活動も頻繁に催されている。だが、もし庶民の暮らしも残されていれば、もっと生気に満ちた町になるのではと彼は残念そうに言う。
ほかにも「東三水街市場は、子供の頃よく父と買物に行きました。今でも行くたびに、あの屋台では魚のすり身団子、こちらでは寿司を買ったと、思い出があふれ出します」最も好きだったのは、父に連れられて春節休暇に台湾をぐるりと回ったり、休日に山や海で自然とふれ合うことだった。今も創作のインスピレーションを得るために団員を連れて山や渓流に出かけるが、これも父との経験のおかげだろう。
華西街、新富町文化市場
新旧の融合
何より艋舺を代表する場所と言えば、華西街観光夜市だろう。鄭宗龍の記憶の中の華西街はかなり独特で、名物だった蛇のショーなどがあったせいか、風変わりなものを好む人達が集まって来ていた。「今は華西街もB級グルメを楽しむ夜市となりましたが、周辺はまだ昔の雰囲気を残し、懐かしい記憶を呼び起こしてくれます」
新富町市場の変身ぶりには鄭宗龍も感心している。日本統治時代の馬蹄型をした本館は姿を留めているものの、中にはおしゃれなカフェやケーキ屋が並び、子供の頃とは全く異なる雰囲気だ。だがこうした新旧の融合にもまた別の味わいがあり、彼の創作への想像力をかきたてる。
雲門劇場
雲門を守る大樹
「雲門劇場」は、淡水ゴルフ場と滬尾砲台の間に位置し、正面には観音山と淡水河河口を見渡せる。周囲は芝生や木々の広がる緑地で、すでに観光スポットとなり、ここでピクニックを楽しむ人もいる。200本以上ある木々は林懐民自らが植えたもので、八里にあった練習場から運んできたインドボダイジュや、樹齢100年のアカギもあり、そのアカギに覆われるように旧中央廣播電台宿舎を改築した「大樹書房」も建つ。ウメの木は、林懐民の母がかつて八里の練習場に苗木を植えたもので、長年団員の練習を見守ってきた。八里の練習場を焼いた火事はこの梅にも及んだが、移植されても強い生命力を見せて毎年ピンクの花を咲かせ、団員たちの慰めと希望になっている。
斜面の上に建つ雲門劇場を下から見ると、建物はまるで大樹のようにたたずんで周囲の木々にとけ込んでいる。大劇場は400席以上あり、円形の建物はガラス張りで周囲の緑が一望でき、自然の中で公演を楽しめる。劇場の外には、著名な彫刻家である朱銘の作品『白彩人間系列』が点在し、人々を生き生きと描いた彫像の数々が劇場に活気を添えている。建物内の雲門ギャラリーでは、1992年の羅曼菲などによる八里での初公演、2008年の練習場火災後の集合写真、2013年の台東県池上での野外公演『薪伝』「渡海」の章などの写真が見られる。鄭宗龍はよくここを訪れ、自らに言い聞かせる。「これらの写真はどれも過去にあったかけがえのない瞬間で、そして今後も多くの美しい瞬間が生まれるだろう」と。
50年の歩みを載せた雲
2015年4月に開幕した雲門劇場だが、それ以前の彼らの本拠地は観音山のふもと新北市八里烏山頭にある練習場だった。2008年にこの練習場が全焼した後、雲門は市の提供による1.5ヘクタールの中央廣播電台跡地に雲門劇場を建設した。土地と建物は一定期間後に市に返還することになっている。建設費用は国内外から4155件、総額6.6億元の寄付が集まり、ここは民間からの寄付で建てられた初の劇場となった。寄付者の名前は、匿名の人も含めてすべて台湾産ヒノキの板に刻み、劇場入り口に掲げて感謝を表している。
「劇場前の芝生の脇には八里の火災で焼け残ったコンテナがあり、コンテナから外を見ると、淡水河対岸の観音山が見えます。そのふもとの八里が雲門を16年間育んだ場所です」鄭宗龍は時々ここに来て、林懐民が団員を率いてきた長い道のりに思いを馳せる。そして、当時の酷暑や厳冬の中での厳しい練習を思い出し、自分は雲門のためにまだ何ができるかと考える。
コンテナを出て入口の方へ向かうと土地公(土地神)の小さな祠がある。鄭宗龍は定期的にスタッフを伴い、この土地の安寧を守ってくれる土地公に祈りを捧げる。また、すぐ近くのスターバックスの前には蓮の池があるが、そこの蓮の花を舞台の小道具に使うこともある。またその池には、雲門で活躍した第一世代のダンサーであり、サブグループ「雲門2」の芸術監督だった羅曼菲のダンス姿を表したブロンズ像が立つ。
台北芸術大学舞踏科卒業の2002年に雲門舞集に入った鄭宗龍は、これまで世界中で数多くの公演を経験してきた。雲門はかつて彼にとって世界へ羽ばたく準備の場だったが、今やすでに高みに達し、ここを世界にとっての芸術の場にしている。「雲門はさまざまな人材を吸収して多くの美しい物を創り上げてきました。空の雲が水分を吸収してふくらみ、やがて大地を雨で潤すように、雲門というこの雲も世界中へと漂い、創作という雨で皆の心を潤します」50年の歩みを経た雲門を、鄭宗龍はこう表現した。
原文出處 光華