人間には宿命がある。生まれる時代も国も性差も選ぶことが出来ない。そうした宿命に抗おうとすることは可能だが、根本的に宿命から逃れることは不可能だ。それが人生というものだ。
例えば、考えてみてほしい。大東亜戦争の際に青年として生きた人々は従軍し多くが亡くなった。私の祖父母の兄弟もそうだった。平和な時代に生まれていたならば、何を成し遂げることが出来たのだろう。涙なくして彼らの人生を振り返ることは出来ない。いつも祖母は嗚咽しながら兄弟のことを語っていた。だが、日本を恨むことはなかった。その時代を悔しがっていた。彼らは生まれる時代を選べなかった。尊い命を国に捧げたのである。人生の中で自らの出来うる限りを行った。高貴な生き方としか評せない。
宿命を甘受して亡くなった人々。こうした人々を不自由だという議論がある。しかし、それは自由についての考察があまりに浅はかではないだろうか。自由とは自分の思う通りに行動できること、その障害が存在しないこと、これが自由だと考えていないか。16~17世紀の哲学者トマス・ホッブズの描いた自由とはこのようなものだった。
しかし、自由については様々な見解が存在し、全く異なる自由論も古代ギリシャより展開されている。哲学者クセノフォンの『メモラビリア(想い出)』によれば、その師であるソクラテスは好き勝手なことをする自由を否定した。それは人間としての尊厳を失った野獣と同じではないか、人間の自由は放縦を意味しない、と問うたわけだ。そして、気高く人間的にあることを自由と呼んだ。少なくともソクラテスにとって、宿命を甘受して必死に生きた人々こそが自由だった。
しかし、現在の日本では、少なからざる人が宿命など存在しないと考えているようだ。政治も司法も、その方向に流されている。
原文出處 產經新聞