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戦後77年の夏/実感を込めた「不戦の誓い」を


体験していない過去の戦争を、実感することは可能か。体験者が減っていく中、どうすれば後世に伝えられるか。毎年8月が訪れるたびに繰り返される問いだ。

この夏は、特に焦燥感が漂う。ロシアによるウクライナ侵攻は終わりが見えず、多くの命と平穏な暮らしが奪われ続けている。国際秩序は揺らぎ、日本では「核共有」や防衛力強化の議論が幅を利かせ始めた。

なぜ人間はこれほど悲惨な戦争をなくせないのか。どうすれば防げるのか。問わずにいられない。

答えを探すには、過去の戦争で何があったのかを知らなければならない。太平洋戦争の終戦から77年、体験を受け継ぐ意味を考える。

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1945年3月10日の東京大空襲を伝える民間施設「東京大空襲・戦災資料センター」(東京都江東区)は開館20年の今年、戦後世代が空襲体験を継承する試みを始めた。広島や長崎、沖縄でも進む取り組みだ。

体験者と継承者がペアを組み、約4カ月かけて台本を練った。

7日、同センターで2組のお披露目があった。8歳で被災した二瓶治代さん(86)を担当する小薗崇明さん(43)は同センター学芸員。未明の空襲で家族とはぐれ、生死の境をさまよった体験を、二瓶さんが描いた絵や証言ビデオを交えて語った。

「私にも幼い娘がいる。8歳の子が心にどれだけ深い傷を負ったかを伝えたかった」と小薗さん。当時の避難経路を一緒に歩いて分かったことがある。「一晩中逃げ惑っていたのは意外と狭い範囲だった。暗闇と大混乱の中、必死に生きようとしたんだなと実感できた」

分からないから知ろうとし、今の自分と重ねて実感をつかむ。その過程に継承の意味があるのではないか。同センターは、育成プログラム作りや継承者の公募も計画している。

事実に目を背けず

空襲被害だけではない。過酷な戦場で生き残った元兵士、シベリア抑留、旧満州(中国東北部)からの逃避行など戦争の顔は一つではない。加害の記憶も含まれる。さまざまな立場の体験を知ることで、市民にとっての戦争が像を結んでいく。

あまりに過酷な事実は知りたくない、子どもに聞かせられないと考える人もいるだろう。だが、目を背けてしまえば、大きな犠牲と悲惨な経験から生まれた「不戦の誓い」が空洞化しかねない。人が人でいられなくなる戦争の真の恐ろしさを受け止める覚悟も必要だ。

なぜあの戦争が始まり、負けると分かっていても引き返せなかったのか。大国のメンツ、楽観、誤算、孤立…。泥沼化するロシアの侵攻と、かつて日本軍のたどった道に重なる部分が多いことに驚く。

当時は仕方なかった、独裁国家の愚かな選択だ、と言い切れるだろうか。不都合な事実を直視せず、問題を先送りし、責任を取らない政治の姿勢は、今の日本にも続いているように見える。日本の戦争に対する検証と総括はまだ完結していない。

決めるのは私たち

ただ、81年前に日本が米国と戦争を始めたときと違い、今は誰もが選挙権をはじめとするさまざまな権利と自由を得た。「同時に責任もある。次の戦争をするかしないか。決めるのは私たち」と、植木千可子早稲田大大学院教授は著書「平和のための戦争論」で指摘する。

東京大空襲を生き延びた二瓶さんは体験を語るとき、必ず言い添えるという。「戦争のない世の中をつくるために、おかしいことはおかしいと言い続けなければなりません」

政府の判断を誤らせないための私たちの努力は足りているだろうか。

原爆の日の6日、西宮市の浜脇小学校で3年ぶりに「西宮空襲を語り継ぐ会」が開かれた。広島に原爆が投下された77年前の朝、西宮の人々は降り注ぐ焼夷(しょうい)弾から必死に逃げていた。ウクライナ情勢に関心はあっても、地元の惨禍を知っている市民がどれだけいるのか-。

そんな危機感から「自分事として戦争の残酷さを実感してほしい」と、浜脇地区の郷土史を研究する「古老の会」がコロナ禍と酷暑をおして復活させた。普段はにこやかなおじいさん、おばあさんが死と隣り合わせの凄惨(せいさん)な記憶を真剣な表情で語り出す。有元宏次校長は「ウクライナでも広島でもなく、この町で戦争はあった。子どもたちも何かを感じ取ってくれたはず」と話す。

次世代に戦争の実相を伝え、「戦後」をつないでいくために、この夏、大人も地域の歴史を学んでみてはどうだろう。

原文出處 神戶新聞

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