蔡英文総統2023年国慶節演説コメント
10月10日,蔡英文総統の8回目,そして任期中最後の国慶演説は,蔡政権の8年の成果を内外に表明する場となった。
1.内政の成果
最初にもってきたのが国産潜水艦の建造であった。30年の前の計画がついに実現したと成果を誇った。次に,蔡英文がこだわっていた国内改革の成果として,同性婚合法化,年金改革,低家賃の住宅20万戸供給,グリーンエネルギーの発電量が原発を上回ったことなどを挙げた。
経済の成果では,GDPがこの7年で17.5兆台湾元から23兆台湾元に成長,平均成長率は四小龍のトップ,6年連続して政府の会計は黒字になったことを挙げた。
貿易では,米台21世紀貿易イニシアティブの締結,新南向国家への輸出は史上最高になったこと,また,EUが台湾への最大の投資国になったことなどを挙げ,明示はしていないが,過度な中国経済依存を減らしていく方向に向かっていることを成果として言及した。
2.中台関係・国際政治
中台関係では,過去の演説では中国批判があったが,今年はなかった。一国二制度を拒否するとか統一は受け入れないとかは,一言もなかった。代わりに述べたのが,「平和で安定した両岸関係を構築するための努力」であった。また,台湾の民意を基礎として北京当局と双方が受け入れ可能な関係の基礎と平和共存の道を発展させたいとも述べた。
今年の演説では「共存・共處」の用語が3回でてきた。これは,去年はなかった用語であり,今年の演説がマイルドな印象を与える要因でもある。「台湾がトラブルメーカーだ」という中国側の宣伝に口実を与えないよう苦心した跡がうかがえる。8年間慎重にふるまってきた蔡英文らしさが表われた。
安全保障の分野では,抑止力の強化について声高に語ることを控えた。台湾自身の国防努力と台湾海峡のリスク管理の重要性を冷静に強調する内容であった。台湾が国際社会に欠かせない存在になったこと,日台関係,米台関係が盤石であることに特に言及したところに,この8年間で中国の武力行使を抑止する枠組みが形成されてきたという蔡総統の自信が滲み出ていた。
日本の高校生のマーチングバンドが2年続けて台湾の国慶節でパフォーマンスを行なったことも,日台交流が安定して継続していることを象徴していた。
3.「中華民国台湾」
評者が関心を持ったのは「中華民国台湾」の論述である。蔡総統は「中華民国112年の国慶節」と「中華民国が台湾に立脚して74年」を区別している。「中華民国台湾」とは1949年に中華民国が台湾に移転したことで台湾自体が1つの国家(名前は中華民国)として発展してきたという歴史観を表している。さらに,蔡総統は「中華民国台湾はすでに2300万の人民のコンセンサスになった」と誇らしげに語った。
「中華民国台湾」は世論調査でも台湾民衆の多数派に受け入れられている。もともと別の概念である「中華民国」と「台湾」を融合させようとしたのは李登輝であった。蔡英文はそれを引き継いだ。アイデンティティの対立が熾烈であった台湾社会に「ゆるやかな台湾アイデンティティ」が広がり定着している。
今回の総統選挙でも,与野党の対立は激しいが,主要3候補は台湾の自由と民主の体制を守り抜くことでは一致し,習近平主席が進めようとしている「一国二制度」は拒否することを3候補とも明言している。蔡英文の功績として評価されるかどうかはわからないが,「中華民国台湾」の概念自体は定着していくであろう。
4.多文化主義
国慶節の式典は元首である総統が中心に立つイベントである。インターネットで蔡総統の演説の様子を見て,台湾の政治の中心に女性の権力者がいることがこの8年でまったく自然になったことを改めて感じた。この意義は大きい。
今回の総統候補は男性ばかりであるが,副総統候補には女性を指名する動きが出ているし,選挙区で戦う立法委員(国会議員)候補も女性が多く,女性であることはもはや話題にもならない。台湾のジェンダー平等の現状は日本の2つ先くらいをいっている。
また,蔡英文総統は,原住民パイワン族,客家,閩南系の血を引き,台湾の複雑な族群社会を象徴する人物でもある。様々な異論や根強い偏見がある中で,族群融和,新住民,LGBTQなどの少数派にフレンドリーな環境作りが蔡英文時代に前進した。
中国の圧力が強まった8年間,台湾では多文化主義の価値観が広がったことは評価に値する。
5.蔡英文路線
蔡英文の路線とは,穏健な台湾アイデンティティで国内のコンセンサスを固め,国際社会での台湾のプレゼンスを高め,台湾が現状を維持する経済力・国防力を養うことだったと思う。不十分なところはたくさんあるが,蔡英文の2期目の満意度は,陳水扁,馬英九よりもかなり高い。
蔡政権に対する日米の評価も概して高い。来年5月以降は,蔡英文時代を懐かしむ声が,日米の外交筋とかメディア界から出るのでないか。蔡英文は退任してからの評価が高くなる総統であろう。
原文出處 Yoshiyuki Ogasawara